国語の文章を読んで賢い人になろう

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今日は入試対策授業の2回目だ。

講習ばりに長丁場の授業は脳が疲れると思うけど、それだけ頭を使っているということだから、悪いことはないはずだ。

さてさて、Aクラスの国語の授業では、なかなかに高度な文章を読んでいる。

ストレートに社会科学的な論説文や家族や友人関係などが題材となる論説文の場合は、中学生の経験の範疇でもなんとか話の内容がイメージできて理解しやすい。

けれど、作者の人生観を語る哲学的な内容だったり、歴史的背景を伴った文化論だったりになると、「わけわかんない!」ってなる。なぜなら、理解するのに必要な文化・歴史・科学などの教養レベルが高くなるから。今回も日本人が持ってきた精神性の話があって、読みにくかったようだ。

中学生が生きてきた14,5年の何倍も人生経験を積んでいる作者の人生観や、専門的研究について読めと言われても、経験も見聞もないんだからお手上げだよね。

だけど、上位の私立高校はそういう題材を入試問題にしてくるから、取り組まないわけにいかない。

まず、勘違いしてほしくないことがある。

国語の文章読解をするうえで大切なのは、「設問が解ける」ことよりも、作者からのメッセージを「頭と心で受け止めること」だ。

なぜなら、作者はすべての読者に「〇〇(筆者の主張)だ」と伝えたい。そして、この文章を入試問題に選択した高校(先生)は「〇〇(筆者の主張)をぜひ受験生に読んでもらいたい」「この話を理解できる人に入学してほしい」と考えて出題しているからだ。

そう、いわば国語の入試問題は「高校からのメッセージ」なのだ。テクニックだけで高得点を取って入学してほしいなんて、誰も願っちゃいない。

国語の入試問題、いや日々の国語学習を通して、賢い人になってほしい、成長の糧にしてほしいと願っているのだ。それを体現できた受験生に、◇◇高校入学という扉の鍵が与えられる。

だから、僕の国語の授業は昔から、どんなに難解な文章でも中学生にイメージできるように、いろんな話を交えながら、かみ砕いて把握させていくスタンスだ。小野田先生が生徒の時もその前も、ずーっと変わらない。

時に、熱量が高すぎて話が脱線することもあるけど、それも「また脱線してくだらんこと言ってるよ(爆笑)」「えっ!?そことつなげちゃうの?マジ!?」くらいにしてもらえればいい。

うん、それがいい。

なんでいいか?

だって、子どもたちだって、僕が楽しそうに授業してた方がいいでしょ?

それに、読んでから何か月か経ってから

「先生、〇〇は□□なんですよね、だからそれは反則です」

とか、読んだ文章(〇〇は□□)をネタにして自己防衛したりする生徒がいたりする。

これ、かなりうれしいことよ。

でも、最近はこういう子、減っちゃったなー。原因は僕にあり?

ちなみに僕は、賢く屁理屈こねるような子、大好きよ。イエスマンよりよっぽど人間味あるし、おもしろいじゃないか!

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