物事には「基準」というものがある。
推薦基準、採点基準、採用基準…
「〇〇基準」という言葉は、世の中にあふれている。
もちろん、プラス進研にもさまざまな基準がある。
役所じゃないから、すべて基準通りに、とまではしていないけど。
ややこしいが、基準通りにしいない基準(=イレギュラー対応の基準)、というのもあるよね。
どちらにしても、何事にも基準はある。
では、この基準は誰が決めるのか。
プラス進研の場合は、僕であり、小野田であり、要するに塾の人間である。
もちろん、最終判断は僕がする。
基準に対して子どもたちが物言う権利?
ある訳がない。
どんな社会も自分の基準が自由に通用することはない。
お金払ってるから?
客だから?
そんなの通る訳がない。
なんでこんな話をしているか。
前の記事にちょっと書いたけど、毎週のテストで、講師の採点に物申すような子もいる。
完全にこちらの採点ミスならばそれは「ごめんなさい」なのだけど、
そうじゃない場合もある。
一番困るのは、英語のテストで「この表現じゃダメですか?」系のもの。
答え方を指定されない場合や、同様の入試問題であれば「〇」になるだろう。
しかし、答え方を指定していたり、事前に「範囲」と「解答」を明確に出している場合は「×」だ。
毎週のチェックテストの意義は、
「1週間の日々努力の成果」を確認すること。
同義の表現だからと「〇」を与えてしまうと、
「努力」でなく「知識力」やちょっとの「能力」で得点できることになってしまう。
毎日英語の課題と全く同じ問題を出題しているのだから、それに準じるべきだ。
ちなみに、そういう子って、
●毎日課題をやっていない
または
●指示通りにやっていない
だから、もちろん100点は取れない。
やるべきことをやらずに、ちょっとした知識量だけで物申す。
小野田に交渉している場面が多いみたいだけど、僕の耳にも入っている。
念のため言っておくが、僕はそういう無礼な子は潰しにかかる。
まだ子どもなんだし?
いやいや。
そういう、必要最低限の「しつけ」がなされていない家庭の子は、
はじめからお断りだ。
生意気なのと、しつけがなされていないのとは別物。
授業の受け方とか態度、言葉遣いに関しても感じることが多々ある。
僕の怒りのスイッチにも「基準」がある。
という訳で、「基準」についてのお話はこんなところで。
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