グループ授業である意義

勉強に関すること

これも主義主張が強いということを断っておきたい。

昔も書いたことがある気がするけど、考えていることは何度でも書こう。

昔の記事をすべて遡って読んでくれるような奇特な方はなかなかいないからね。

僕は「塾たるものは集団授業塾であるべきだ」と考えている。

これは、直前の記事の「学歴社会」「競争社会」という前提があるから。

そして、ここ20年ちょっとで個別指導塾が乱立してきて、教育界を荒らした。
すべての個別指導塾がそうだとは思わない。しかし、その多くは市場を荒らし、学力低下を呼び込んだ戦犯だ。

集団授業のメリット、その最たることは、

「個人の希望に寄り添わない」「不親切な指導方法」である。

そのメリットを、デメリットに書き換え、参入したのが個別指導塾だ。

個別指導塾の「個人の希望に寄り添う」「親切・丁寧」というのは、耳障りは非常に良い。

「お子さんのために寄り添います」

なんて言われたら、お客としたら気分が良くなるでしょ。

だけど、よーく考えてほしいんだ。

「私の偏差値は50です。東葛飾高校に入りたいです。」

と言われて、

「じゃあ、あなたに合わせて東葛飾高校の偏差値を50に下げますね」

なんてこと、ある?

頑固に伝統の味を守るラーメン店に入って、

「私の口には合いません。スープを変えてください。」

って頼んで、

「はい!わかりました、あなた好みのスープにします」

なんてある?

店からしたら、「気に入らないなら他に行け」でしょ?

学校だってそうでしょ?

自分の思い通りに校則を変えてください、テストの配点を変えてください

これが通用する?

するわけがないよね。

世の中というものは、個人にとっては実に理不尽に思うことが多く、
学校という義務教育の場は、社会は自分勝手に考えれば理不尽の連続であることを学ぶための場所
僕は学生時代からこの信条を曲げたことがない。

でも、何もかもが自分に合わせられる社会なんて、想像したら恐ろしいよ。
人間という存在は唯一無二、誰一人同じ者などいないのだから。
バラバラに、好き勝手に、要求を通すような世の中になったら…..
やっぱり、何らかの決まりや規範は大切なんだ。

集団指導は、その意味で言えば実に不親切で不条理に見えるけれど、
「自分に合わせてもらえない」→「自分自身が変わる」→「志望校の求める人間(学力)に近づく」
こういう思考に至ることを考えればなんとも合理的な指導システムである。

逆に、個別指導は、一見「親切・丁寧」に感じるけど、
周囲と自分の差異を見つめ、自分を変えるエネルギーにすることはできないし、そもそも求められるレベルがわからない。あなたができれば褒めるの連続だもん。そして、学力の低下も呼び込んでいく。
さらに言えば、逆に我が儘な人間(=勘違い)を育成するよね。
なんでも自分に合わせてもらえると思うという点で。

そういう子たちが社会に出て、理不尽な風をもろに受ける……。どうなるのだろう。

医者になりたいと思うなら、医師(国家資格)が求めるレベルの学びを得る

トヨタで自動車を開発したいなら、トヨタ自動車の求めるスキルを身に着ける

国家官僚になりたいなら、省庁が求める(専門領域含め)高度な学びを得る

東葛飾高校に入学したいなら、東葛飾高校が求める学力を身に着ける

社会はあなたに合わせてくれない。変えるのは自分自身だ。

だからこそ、集団指導が合理的であり尊いのである。

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