考えること学ぶことって、難しいようでいて、人間にとってもっとも簡単な手続きであるはずなんだ。
だって、道具も何もいらない。
自分の身体だけでできることなんだから。
今は多様性の時代だから、人生にはいろんな生き方があるってよく言うじゃん。
それならば、なおのこと「学ぶこと」「考えること」を止めてはならないと思うんだ。
仮に、野球で飯を食っていく覚悟で、野球にすべてを注ぐとしても、
「野球で生きていくため」に四六時中、野球のことを考えて、学んでいると思うよ。
「どうしたら上手になるか」「どうすればケガをしない体を作れるか」
考えて行動して、失敗して学んで、また考えて行動して、また失敗して学んで。
これを繰り返してるでしょ。
だからね、毎日勉強するのは無理だとか、嫌だとか、考えたり口に出したりしてる時点で
何をやっても、選んでも、大成することはないって思うね。
あと、スポーツで生きていくか決断するとき、ケガをして続けられなくなったらどうしようとか、
考えちゃう人、どうしたっているじゃん。
もしくは、その道で生きていく覚悟本当にあるの?
って問われて、どうしよう…って宙ぶらりんになったり。
ちなみに、僕もそんな人間だよ。
ケガして競技を続けられなくなったら…
決断したいけど、うまくいかなかったときは…
って。
結局、自分は何のとりえもない、ごく普通の弱い人間だった。
だから、勉強するしかないなーって。
勉強って何にもできない人間にとっては、もっともかんたんな手続きだ。
ある時から考えるようになった。
どんな世界でも名を残すような人って、そんな保険をかけるみたいなことは考えないんだろう。
というより、そういう暗い未来を想像するということを知らないんだと思う。
道具を使ったりするとなおのこと、勉強に比べて手続きも複雑になるから、
常に前向きに上手くなることを突き詰めているんだと。
勉強にしたって、東大を目指して勉強している若者が、
「もし脳梗塞になって勉強できなくなったらどうしよう」
とか、考えていると思う?
東大を目指す人でなくたって、そんなこと考えていないでしょ。
やっぱり誰しもが「1問でも多く解いてやりたい」とか「今度は〇〇に追いつくぞ」とか、
そうやって自分なりの目標を定めて考え学んでいると思う。
そういう意味で、勉強は「できるようになる」「レベルアップする」という
楽しみを味わうことができるゲーム?競技?とも言えるんじゃないか。
今日できなかったことが明日できるようになる、それが繰り返されれば楽しいじゃん?
明日はクリアしてやろう!って思うのは、ゲームと何ら変わらないでしょ?
スタートのレベルや位置(時期)が人によって違うのも、当たり前のことだし
人より劣るとわかっているなら、相応の努力を重ねていくよりほかにない。
資本主義の世の中は不平等だから受け入れて学ぶしかないんよ。
けど、その不平等さが人を強くするともいえるよね。
だから、勉強が嫌いでもいい。
無理に好きにならなくたっていい。
それでも、毎日、毎日、続けていくことに意味があるし、ゲーム性も感じられるようになる。
自分の身体とえんぴつと紙1枚。ほかに何もいらない。
勉強することは人が生きてゆく中でもっともかんたんな手続きなのだ。
プラス進研は、そういうことを身体で経験できる場所でありたい。
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